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イニシエーションの没入と否定

では、そのほかのイニシエーションにおいてはどうなのでしょうか。『講座 心理療法第一巻 心理療法とイニシエーション』のなかの河合俊雄氏の「イニシエーションにおける没入と否定」には次のようにあります。
「シャーマンのイニシエーションにおいても、自分が全く動物霊や精霊にゆだねられて、イニシエーションに没入しているだけでなく、それを外から見守っている意識が存在しているのである。」(p.52)
「イニシエーション自体が、没入と外に出ること、没入と否定との関係であると考えられる。」(p.53)
河合俊雄著『概念の心理療法』では、「アニマがイメージの世界を実体化し、それを素朴に信じるのに対して、アニムスはそれを否定する。さきの箱庭療法の例だと、この箱庭はどういう意味があるのだろうか、どうして箱庭を作っているだけでよくなったのだろうか、などの問いや、それはどうせ遊びや幻想にすぎないとかいう否定がアニムスの現れである。」
「ヒルマンの立場を徹底すると、イメージを肯定し、深めるしかなくなってしまう。しかし魂はアニマだけでなくてアニムスでもあるので、時にはアニムスの働きによってイメージを拒否し否定することが必要なのである。」

 このアニムス的な働きは禅定においても必要なことは先に述べたとおりです。禅定はいわば浄土の世界に没入することでありますが、同時に、注意深い意識によって、その状態を点検することが必要になります。どのように体験されているか、徹底しているのかどうか、何が徹底することなのか、その徹底を妨げているのは何か、その妨げ解消し、貫くようになるにはどのように学んだらよいのかという探求が必要になります。また、禅定においていかにダンマに徹底しようとも、また、いかに凄絶な体験をしようとも、もとの「私」にほかならないという自覚もその働きということになるでしょう。どんなに激しい体験であっても、これ以上はないほどのダンマの徹底さを得ても、もとの「私」であるほかはない。それはただの経験にすぎないという意識が実際上、必要です。河合俊雄氏のアニムスの働きの必要性を指摘されていることは、仏道者が禅定に没入することのみに専念するあり方を正してくれます。禅定を適切に学ぶには、絶対的に必要な姿勢であることがいえるでしょう。この河合俊雄氏のイニシエーションの否定は、禅定を学ぶ者がまず、理解すべき禅定の根本原理ということになるでしょう。

 河合俊雄氏は『心理臨床の理論』における指摘はきわめて重要です。
「身体からのアプローチは、しばしば派手で非日常的な体験を引き起こすけれども、体験の派手さが大切でないことを知っておかねばならないであろう。むしろ体験したことをどう意識するか、それをどのような意識作業ができるかの方が、大切なように思われるのである。さもないとメディテーションなどの体験は、一種の心理学的なツーリングに過ぎなくなってしまう。つまり、観光旅行のように珍しい体験や地方を旅行して楽しんでも、元に戻ってみると同じ自分のままであっては、体験したことの意味がないのである。それに対して旅行自体は派手でなくても、それが自分の体験になり、自分に変化をもたらすときは、非常に意味のあることになる。それは珍しい対象を眺めていることではなくて、自分の主体の変容になっているからである。」(p.96)
「このようにフィードバックや意識化ということが重要なのでメディテーションなどによって派手な内容を扱ったり、アプローチをしたりせずに、むしろ目立たないことを深める普通の心理療法が意味を持ちうるかもしれないのである。」(p.97)
「メディテーションやヴィジョンによって文字通りシャーマン的な飛翔や意識を派手に体験しなくても、夢におけるイメージを深めることによって、同じ次元に至るのは可能である。あるいは極限的な体験をしてみた人は、そこから目立たない夢イメージにも違う次元を見ていくことが可能になるかもしれない。」(p.97)

 メディテーションが一種の心理学的なツーリングに過ぎなくなる危険の指摘は、玉城康四郎の言う、ダンマを体感する禅定を学ぶ私たちにとって、とても手厳しいものがあるのですが、このことはまさしく、そのとおりであると私は思います。玉城康四郎のいう終地という徹底したダンマの体験を得ていても、もとの「私」であるのですから、そのことがまさしく当てはまることになるでしょう。そのことは、『法華経』の舎利弗について同じく、もとの私のままに、竜女を判断していることもそれを表しています。ダンマの直接体験が、何らかのビジョンを見る体験ではなく、主体の絶滅感、如来による支配となるものであっても、主体の変容につながっているわけではありません。そのことを大乗経典は指摘し、自我がかかわる、その変容していくための作業をしていくとこを促しているのです。われわれ仏道者は、主体の変容をめざす心理療法的な作業こそ必要であることがいえるでしょう。

 原始仏典では、禅定において、意生身となることだけでは解脱ではないとしています。この場合、先のことばを借りていうと、外から見守る意識の状態にとどまって、識の滅、精霊などよって殺されるという没入に至っていないということになります。原始仏典は、意生身の滅は、玉城康四郎のいうダンマの顕現が起きるときで、それは、涅槃、解脱といわれます。ダンマの直接体験が熟していくと、意生身が法身そのものとなるかのようになります。それが玉城康四郎のいう終地であり、大乗経典の無生法忍であることは先にくり返し述べていることです。没入の徹底化が行われ、ひとつの成果が実現されたことになる。しかし、このとき、如来と一体化の徹底によって、意生身・業熟体であることが忘れられてしまう。否定する働きを持つ意識が忘れられてしまう。自我肥大に陥って、自分自身を見失ってしまう。それを涅槃に安住することであると大乗経典は警告し、自分自身を自覚することを強く促します。意生身は絶滅しているのではない(『楞伽経』のいう「法の自性を了知する意生身」(高崎直道著『楞伽経 仏典講座17』p.332参照)ということになる。簡単な言い方をすれば、「如来の働きとともにする意生身」ということになる)、仏智を求めて求道せよという。『法華経』は焼身供養のイニシエーションを通過することを促す。それは、自らを生贄として捧げる没入のみならず、意識の否定の働きによって、自我を改変していく作業を意味する。それは身を焼くほどの痛みを伴う。安楽に徹底する没入ではないのです。『涅槃経』はそれを有徳王の護法の戦いとする。全身に傷を負うほどの命をかけた戦いを意味する。有徳王という自我の積極的な働きがあってこそ可能となるということになるでしょう。

(※5年まえに書いたものを掲載)
いま読み直すと、書き直したい。内容がかなり真面目で、理想的すぎる。
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プロフィール

パン

Author:パン
玉城康四郎を尊敬する無宗派大乗仏教徒。一仏乗依拠。
終地の禅定を重視するが、多神教的であるアニマ・魂を尊重したい。また、自我の現実世界での役割も重視したい。
リベラル。無党派大衆運動を支持します。
会社員。

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