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異人の死、原悲

(5年まえに書いたものを掲載)

異人の死

〈イメージ2 共時的出来事2 見捨てられの象徴 その2〉
 先の、私の経験した象徴的な出来事でイメージされた貧しい若者は、いま考えてみると、さまよい、排除された異人であるといえるかもしれません。彼は、ついに孤独のなかで死を迎えようとしている。彼はただ、生きようとしただけなのに、それができなくなった。彼は排除されたことを恨んではいなかった。どうすることもできない苦しみを知っていたからです。彼も彼らも同じなのです。ただ、彼にとって最も深い傷となったのは神に見放されたことです。神は私を助けようとはしなかった。そのことを、死を前にして、ありのままに知るのです。もはや救いがないと知ったのです。死ぬより他なかったのです。死がやってきたのです。彼は死がやってきていることを悟り、そのまま横たわるのです。彼はもはや死に抵抗する力も気力もない。ただ、力なく身を横たえるだけです。あまりにも悲惨で孤独な死。彼はもはや何もしないのです。そのとき、彼をアヴェ・マリアが歌うのです。彼の悲劇的な死をアヴェ・マリアは歌うのです。彼の惨めな死を歌っているのです。その歌声は彼の魂を大きく揺さぶるのです。彼はその力に身を震わし、神に包まれているのです。その深い悲しみのなかでその歌声は彼を包むのです。彼はその不意に聞こえてきたその曲により、神に包まれ恍惚となっているのです。このときの彼に生じていたことは、単なる救いということばで片付けられるべきではありません。もはや、それはことばであらわすことのできないものです。彼が神に包まれているのは、死を前にして、人間の本性をさらけだしたがためではなく、何の頼りもない孤独であり、深い悲しみの中で訪れる死なのです。死を受け入れること、それは禅定の本質であります。

 この私の象徴的な出来事の根底には、深い悲しみの感情が存在します。この悲しみは河合隼雄氏が『神話と日本人の心』のなかで述べられている「原悲」に相当するといえるかもしれません。
「人間がその「本性」として自然に還ってゆく、自然との一体感の方を重きをおくときに、「原悲」の感情がはたらく、と思われる。」といいます。


深い悲しみを歌うことは神でもあります。しかし、高く舞い上がることは深い悲しみを無視し、忘れてしまいます。

次のような布置が考えられます。



                            金色の身体

                               ↑

                          仏道者としての成人

            男性性                               女性性

 
                           貧しい若者の死



 仏道者として一人前となることとはどういうことなのでしょうか。私にはよくわかりません。ただ、貧しい若者を疎かにしないことの必要性だけはわかるように気がします。その若者の悲しみを無視してはならないのでしょう。
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パン

Author:パン
玉城康四郎を尊敬する無宗派大乗仏教徒。一仏乗依拠。
終地の禅定を重視するが、多神教的であるアニマ・魂を尊重したい。また、自我の現実世界での役割も重視したい。
リベラル。無党派大衆運動を支持します。
会社員。

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