スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

トリックスターである常不軽菩薩

トリックスターである常不軽菩薩

『法華経』において、道化的であるのは、常不軽菩薩です。そのトリックスターの姿は次のようです。
正法が滅し、正法に似た教えも滅しようとしていたとき、彼は経典を説いたり、唱えたりすることもせず、会う人ごとに「あなた方を軽蔑しない。すべての人は菩薩乗に乗るべきです。そうすれば、仏となることができるからです。」彼は、同じ僧侶の仲間たちにも同じく声をかける。それを聞いた僧侶たちは、「彼は如来ではなく、菩薩の身でありながら、われわれに対して、菩薩乗を勧め、それをすれば成仏できると予言する。身の程知らずであり、われわれをバカにしている。」慢心する僧侶たちから、罵られ、土塊や棒切れを投げられても、彼は悪意を持たず、遠くから大声で「私はあなたがたを軽蔑しない」というのです。そのため、彼は、常不軽というあだ名がつけられるのです。

彼は、僧侶でありながら、経典を説き、唱えるという僧侶として必要なことをしないで、ただ、菩薩乗に乗ることを人に勧めることしかしなかった。教典を説き、唱えても、それは菩薩乗に乗ることであるとは限らないことであり、それのあり方に満足して僧侶のすべきことを果たしていると驕りを否定していることになります。しかし、思い上がった僧侶はその指摘を受けていることに気づかず、あのバカ、経典も唱えないで何をしている。それだけでなく、思い上がって、われわれに対して、菩薩乗に乗れと説教するとは、言語道断である。彼はその怒りによって罵られ、棒まで投げつけられるのですが、それに懲りず、棒が投げつけられても、当たらない距離から、大声で私はあなた方を軽蔑しないというのです。彼の行動を見て、僧侶たちは、どうしようもないバカだと思ったに違いありません。その道化的な姿に呆れて、常不軽とあだ名をつけたのでしょう。

彼は、愚かに思われていたけれども、実際は、仏道の現状をありのままに見て、その誤りを指摘し、菩薩乗に乗ることを勧めているだけにすぎません。何の悪意もないし、相手をバカにしているわけではありませんが、自分が正しいと確信する僧侶の多くは、その指摘を理解できるはずもなく、何をバカなことをいっているのだと、反対に彼こそ、思い上がっているのだと思ったに違いありません。彼に罵声を浴びせ、土塊を投げかけるのです。ひどい仕打ちです。何の敵意を持たないスサノオに対して、アマテラスが武装して迎えたことに等しい事態が生じています。常不軽菩薩は、道化的な姿によって、傲慢な僧侶の攻撃をある程度緩和させています。彼はそれによって身を守られているのです。
彼の純粋無垢な仏道の思いと実践は、ついに、死の体験によって、『法華経』を聞き、法師となることで実るのです。彼は、『法華経』の力によって、神通力と弁舌、智慧を身につけ、以前と同じように、私は軽蔑しない。菩薩乗に乗るべきであるといいつつ、『法華経』を説くのです。それによって、いままで彼をバカにしていた人たちの多くが、
彼に従うことになります。しかし、それでも、彼を攻撃する者もあったといいいます。経典は、『法華経』を説く者を攻撃することは、最大の罪で、最悪の地獄に落ちるといい、その反対に、彼を支持するものは六根が清浄になると説きます。彼を攻撃した者はその後、地獄に落ちたけれども、その罪を終え、常不軽菩薩に助けられて、いまでは、不退転の境地を実現しているといいます。

常不軽菩薩が『法華経』の法師となってから後の説法活動は、おそらく、この道化性を具えつつ、軽蔑しないという安楽行を実践し続けていったものと思います。彼は、戦闘的な姿勢によって、説法活動を続けていったわけではないでしょう。
戦闘的な姿勢が説かれるのは、『法華経』の後の成立である『涅槃経』です。
この経典は、男性的であり、戦闘的で、厳しい。道化の姿はこの経典にはなかったように思います。この経典は非常に厳しく、道徳的です。ただし、現実にうまく対処するために、現実と調子を合わせることがときに大事であるという柔軟さが存在しています。そのことはトリックスターの一面であるといえそうですが、道化のおどけた姿が見えないことから、その大切さをこの経典が認めていたとは考えにくいでしょう。
 常不軽菩薩は、トリックスターの肯定的な面として機能して、旧体制を崩し、新たな体制を築くことができたといえるかもしれません。彼が単なる悪意の破壊者ではなく、建設的な創造につながったのは、軽蔑しないという自我の姿勢が存在したためであるのでしょうか。『法華経』では、安楽行品で、四安楽行が説かれます。それは、『法華経』の相続者が悪世において、『法華経』を説くときの姿勢について説いています。その安楽行で説かれることのひとつとして、軽蔑しないことが説かれます。彼の、軽蔑しないという姿勢は四安楽行の実践です。それを受けて、『涅槃経』も大慈が説かれ、一闡提に対しても、怒らないということが説かれます。しかし、その超人的な善の理想は、結果として悪を布置させることになりかねないとユング心理学は説明しています。そうであるならば、四安楽行は悪を生じさせ、増大させることにもなりかねない危険が存在することになります。悪だけでなく、トリックスターも忘れさせてしまいます。おそらく、悪なるトリックスターを生み出す危険が存在することにもなるのかもしれません。

(5年まえに書いたもの)
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

パン

Author:パン
玉城康四郎を尊敬する無宗派大乗仏教徒。一仏乗依拠。
終地の禅定を重視するが、多神教的であるアニマ・魂を尊重したい。また、自我の現実世界での役割も重視したい。
リベラル。無党派大衆運動を支持します。
会社員。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
カレンダー
07 | 2017/08 | 09
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -
FC2カウンター
リンク
QRコード
QR
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

検索フォーム
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。