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金剛力士、普賢菩薩、金剛薩埵

金剛力士、普賢菩薩、金剛薩埵

 『十地経』やその他の多くの大乗経典では、無生法忍を実現し、身体変幻自在を身につけた者には、金剛力士が常につき従って護衛するといっています。この金剛力士を玉城康四郎のいう「如来と二人連れ」という言葉から、如来と同じ意味を表していると考えることもできるでしょうが、そればかりではなく、もうひとつの意味があるでしょう。ユング心理学のいう自我と自己の相互作用の必要性をここで当てはめてみると、それは、如来の働きと関係をもつ「自我」の意味に解釈ができるでしょう。
 その意味によって解釈すると、無生法忍を実現し、もとの「私」であるという自覚をそなえ、はるかかなたの仏智の実現へと求道を開始した仏道者は金剛力士の助けを借りてこそ、菩薩はその後の仏道を実践していくことができるということは、法身の働きと関係を持つ、自我の適切な機能があってこそ、その実践は可能であるということになるでしょう。

 その手に持つものは金剛杵であり、それは法身の象徴であるでしょうが、彼に与えられた役目はその手にもつ武器でその仏道者を守ることにあります。つまり、それは法身が仏道者を守るということになるという意味にも取れますが、もし、その意味だけの理解となると、法身の働きのみによって、仏智は実現されるということを意味することになってしまい、先に経典が説明する自我の役割が無視されてしまいます。永遠の少年が大人になるためのイニシエーションを通過するに、自我の強さにかかっているというユング派の方の説明があったように、法師となるための自我形成のためには、強い自我の存在が不可欠であるということになるのでしょうから、その意味によって考えると、イニシエーション通過していけるだけの強い「自我」をもってこそ、その道を歩むことが可能であることを金剛力士の護衛で表しているという解釈が可能となるでしょう。自我の働きによってこそ、次の第九地である法師の境地へと進むことができる。つまり、法師としての「自我」が形成することに向かうことができるということになるでしょう。

 松長有慶著『密教』によると、大乗経典に登場する金剛力士は、大乗より後の成立である密教において金剛薩埵の前身であるといいます。金剛薩埵は密教の継承者であり、『金剛頂経』では、普賢菩薩と同体とされるといいます。

 『法華経』普賢菩薩勧発品では、『法華経』を護持する者普賢菩薩は常につき従って守るといいます。「普賢菩薩の威力によって、『法華経』が委ねられることになったのであるし、その者は、普賢行を行う者となるであろうし、多くの仏の下で善根を植えるものとなるであろう」といいます。つまり、ただ単に禅定に専念し、如来の働きに徹底するだけではなく、「自我」が積極的に関与することによって実践される仏道によってこそ、『法華経』が委ねられることになるし、その者は常不軽菩薩のように、輪廻を繰り返しながら、普賢行を実践し、善根を植え続けていくことが可能であるということになるでしょう。普賢行の選択は自身の自覚と世界の区別という自我の機能の働きを前提としていることは先に述べたとおりです。

 経典の発展に従って、金剛力士は普賢菩薩、金剛薩埵へと変貌していき、仏道の実践者と同体とされるようになるのは、それだけ、自我の果たす役割を重視するようになったという解釈も考えられなくはありません。

 普賢菩薩と同体である金剛薩埵は、密教の相続者である阿闍梨を意味するでしょうから、密教の阿闍梨の資格は、大乗経典の説く法師の資格に基づいていると考えるのが自然であるでしょう。
 法師としての「自我」を形成しているかどうかが阿闍梨の資格として問われているのでしょう。弟子が曼荼羅に入り、法を授かるための儀礼を受けることは法師がこの条件を具えていてこそはじめて、実際に、法を授ける可能性が生じるということになるのでしょう。

 ユングによると、儀式とは、神と直接に接近するための意味と、神と直接接近することの危険を避けることの意味の両面があるといいます。このことは、仏教の儀礼についても同様であるでしょうし、儀礼を執り行なう師にもそのような両面を具えている必要があるということになるでしょう。それは、師が如来と直接交流ができているだけでなく、その交流による危険を回避できるだけの「自我」を具えていることが必要であることを表しているということになるでしょう。師は普賢菩薩であり、金剛薩埵であることが求められるのでしょう。弟子は、普賢菩薩・金剛薩埵の威力によってこそ、ダンマ・正法を相続することが可能となるというのでしょう。

 その意味によって理解するとき、常不軽菩薩が自ら受けた迫害に対する姿勢の意味も理解できます。終地を実現し、誇大妄想や被害妄想などによって破壊的な行動となっているのではなく、古い惰性的な秩序を打ち壊し、建設的な、創造のための戦いであり、それは彼の軽蔑しない姿勢によって貫かれています。軽蔑しないということは、『法華経』の安楽品においても強調されています。釈尊は、安楽行とは『法華経』の法師がなすべき姿勢であるといっています。古来、これを摂受といいます。摂受と対である折伏は後の成立である『涅槃経』において強調して説かれます。この折伏とは摂受を基本とするのであり、摂受を無視した折伏は、ただの破壊であるなすぎなくなってしまうでしょう。
 『法華経』の精神を受け継ぐ『涅槃経』においても、「自我」の役割の重要性を説いています。有名な有徳王の護法の説話がそれを表しています。

(5年まえに書いたもの)
いま読んでみると、ちょっと、まじめすぎるかな。自我の強さって、なんだろう。理想かもしれない。いまの私には、その現実を知ってはいないので、理想的すぎると思ってしまう。
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パン

Author:パン
玉城康四郎を尊敬する無宗派大乗仏教徒。一仏乗依拠。
終地の禅定を重視するが、多神教的であるアニマ・魂を尊重したい。また、自我の現実世界での役割も重視したい。
リベラル。無党派大衆運動を支持します。
会社員。

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