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調伏利益衆生

調伏利益衆生

 維摩居士は衆生教化のためにアシュク仏の浄土から娑婆の世界にうまれているといいます。特に、貧困の者を救うために無尽の財を持つ長者の姿を現しているといいます。この菩薩は衆生教化のために酒場、賭博場、風俗などにも出入りするといいます。そのほか、他の宗教の信仰者と付き合うことや、政治、経済、教育にもかかわるなどして、人々を教化するといいます。このことが可能であるのは、方便(人を仏道に導く手立て)に通じているからであるといいます。衆生に応じてさまざまな姿に変えて、智慧による弁才を働かせて、衆生を教化する。解脱のままに説法をするから、人を解脱へと導くことのできることが可能であるといいます。この菩薩の解脱を不可思議解脱といいます。この解脱を実現する菩薩は衆生のためにさまざまな姿を変えて、教化するといいます。

 維摩居士は小乗のあり方を痛烈に批判します。あるとき、維摩居士は病気となります。声聞たちは釈尊より、維摩居士の見舞いに行くように指示されるのですが、声聞たちのすべてがそれを拒否します。かつて、彼らは維摩居士により、小乗のあり方であることを厳しく注意されたことを思い出し、恐れて、会いにいくことができないといいます。

 そこで釈尊は弥勒菩薩に見舞いに行くようにいいます。弥勒もまた拒否します。弥勒菩薩は釈尊の次に仏となる菩薩で、既に不退転の境地に達しており、次に娑婆に生まれたときに、成仏すると仏より予言されています。つまり、一生補処の菩薩です。弥勒菩薩は兜率天にて自身の弟子たちに不退転の境地について説法していたところ、維摩居士が現れて、その説法の誤りを指摘します。成仏とは衆生と離れて存在するものではないこと。衆生がいる限り、如来は衆生とともに働いて止まないこと。菩提とは衆生と離れてあるのではないこと。あらゆる心の働きが止んで、法界としてあることが菩提であることなどを説明します。その説法を聞いた弥勒の弟子たちの二百人が無生法忍を達することができたといいます。そのことがあるので弥勒は見舞いには行けないといいます。

 そこで釈尊は文殊菩薩に見舞いに行くようにいいます。文殊菩薩は維摩居士について、比類なき弁舌の持ち主であり、誰に対しても怒りを抱かないもので、智慧の持ち主であると評します。文殊は自身の能力のままに維摩居士と談論することにしますと釈尊にいい、維摩居士のもとへ見舞いに行きます。そこで文殊は維摩居士の病気について訊ねます。維摩居士は無明がある限り、また、衆生の病気があるかぎり、自分の病は続くのであるといい、菩薩は衆生を我がひとり子を愛するように愛するのであり、衆生が病気である限り、菩薩もまた病気であり続ける。だから、私の家族とはあらゆる魔であり、邪見の者である、と文殊菩薩に語ります。

 この菩薩のあり方を『涅槃経』では極愛一子地の菩薩といいます。極愛一子地に住する菩薩とは、たとえば、一闡提が地獄に落ちたとき、その地獄の苦を受けて、後悔して、改心するとき、数々の説法によって善根を生じさせようと考えて、ともに地獄に落ちるような菩薩であるといいます。

 如来はすべての衆生を平等に我がひとり子のように愛するといいます。極愛一子地のことをまた、仏性といいます。仏性は法身であり、如来であるといいます。極愛一子地の菩薩とは如来そのものともいえるのでしょう。

 維摩居士は極愛一子地の菩薩ということになります。衆生が病む限り、自身も病み、衆生の病みが治らない限り、常に衆生とともにあるといっています。一生補処のあり方でいる弥勒菩薩の仏道よりはるかに熟した仏道者であるというのでしょう。

(5年まえに書いたもの)

維摩居士は、在家仏道者の理想像。文殊をも超えるほど。
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パン

Author:パン
玉城康四郎を尊敬する無宗派大乗仏教徒。一仏乗依拠。
終地の禅定を重視するが、多神教的であるアニマ・魂を尊重したい。また、自我の現実世界での役割も重視したい。
リベラル。無党派大衆運動を支持します。
会社員。

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