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不退心

不退心

 『涅槃経』の説く不退心とは次のようであるといいます。それは玉城康四郎のいう終地の不退転の境地や、『涅槃経』以前の成立である大乗経典の不退転の境地と区別して述べられていると考えられます。

 「衆生のさまざまな苦を除いて、安楽を施すために、財物、身命を惜しむことなく捨てることができれば、そのものは、自ら、必ず無上正等覚に達するに定まっていることを知る。また、自らの身体を火によって焼き、大苦を受ける。そのとき、自らの心を叱りつけて次のように思う。この苦は地獄の苦の百千万分の一にも満たないほどである。それゆえ、軽苦といえる。もし、この軽苦を受けることをできないとすれば、どうして、よく地獄の苦の衆生を救うことができるのであろうか。また、頭目や手足、血肉を衆生に施し、釘をもって身体を打ち、巌に身を投じ、火の中に入る。このようなさまざまな苦を受けるといえども、心が退かず、動じないのであれば、自ら、必ず無上正等覚に達するに定まっていることを知る」といいます。

 つまり、『涅槃経』は本当の不退転ということはこのことをいうのであるといいます。このことは、衆生の救済に不退転であるともいえるでしょう。如来の大慈、菩薩の大慈というものは、衆生の救済に不退転であるといえるのでしょう。

 終地に達することができたとしても、『涅槃経』のいう不退転の境地とは全く違うことになります。終地と『涅槃経』の説く極愛一子地、不退転の境地は全く比較にならないほどのレベルが違っているということができるでしょう。

 不退心も極愛一子地の境地も、人間にはその実現は不可能と思えるものであり、現実離れしていると思えるものです。母性と父性の極みと思えるものがごく普通に生きているわれわれの現実に適用されることはほとんどありえないでしょう。しかし、このような常人離れしたことを除いて、父性と母性はわれわれが生きていくうえで、誰もが必要とされるものであることはいうまでもないことであるでしょう。特に、心理療法では、治療者にこの両者が要請されるといいます。心理療法家はそのために、厳しい訓練を受けて初めて身につけていくといいます。母性と父性を具えて、クライアントとともにするということは、厳しい訓練を経て、初めてできることなのでしょう。そのことは、素人の身勝手な善意で行えるものではないといっています。終地を実現すれば、利他などということはまったくありえないことですし、素人的な努力によって、心理療法家のそれを真似ようとしても無理なことでしょう。

(5年まえに書いたもの)

この不退心は狂気の沙汰としか思えない。人間離れしている。人間を超えている菩薩のみが可能であって、われわれには縁がないだろう。
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プロフィール

パン

Author:パン
玉城康四郎を尊敬する無宗派大乗仏教徒。一仏乗依拠。
終地の禅定を重視するが、多神教的であるアニマ・魂を尊重したい。また、自我の現実世界での役割も重視したい。
リベラル。無党派大衆運動を支持します。
会社員。

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