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陀羅尼 1

陀羅尼

『十地経』の第九地では、陀羅尼を獲得し、それに基づいて巧みに説法するとあります。また、無数の陀羅尼の道を体得し、無数の仕方で説法するといいます。陀羅尼とは何を意味するのでしょうか。陀羅尼とはサンスクリットを音写したもので、意味は「保つもの」であるといいます。何を保つのでしょうか。それはダンマでしょうか。ただ単に、ダンマを意味するのではなく、ダンマの貫きとともに、物事を細かく分けて区別する意識の働きを保ちつつ、仏道の師事とは何であるかを探求し、法師に必要とされる技量のことをあらわしているのでしょう。法師として必要な力を意味するでしょう。経典は、第九地は十波羅密のなかの力波羅密が相当するといいます。

その法師の放つ徳の光明は、相手の人の心の密林を照らし、反射して、戻ってくるとあります。そのようにできるからこそ、法師なのでしょう。それが力波羅密であり、陀羅尼であり、巧みな弁舌なのでしょう。これは法師となってはじめて可能であり、第八地の修行者の放つ光明では、相手から帰ってくるとはなっておらず、衆生の煩悩の闇を消滅させると経典にあります。第八地では、一人の身体の仏道から無数の身体の仏道へと転換していく学びの途上にあり、衆生とともにする仏道の実践の学びを開始したばかりの初心者のレベルにあることを表しているのでしょう。第八地は自身の放つ光明が相手から返ってくるような力を得ていくように学んでいかなければならないということになるでしょう。

それを考える上で、氏原寛著『カウンセラーは何をするのか』にあるカウンセラーの態度が参考になると考えます。カウンセラーは「聴き・返す」という準備性が必要であるといいます。それがあるからこそ、カウンセラーとクライアントの双方の「聴き・返し」あうプロセスが展開してゆくといいます。
 この「聴き・返す」ことが先の経典が説く光明の反射に当てはまるのではないでしょうか。仏道の法師にもそのような共感能力が必要であることを表しているように考えられないでしょうか。こじつけかもれませんが。
「聴き・返す」という共感能力があるからこそ、光明は一方的に放たれているだけではなく、相手の届き、受け止められて、それが今度は相手のほうから返ってくるのかもしれません。その「聴き・返し」あうプロセスが展開するからこそ、身体は互いに変容していくのかもしれません。

氏原寛氏は先の著書で、「聴き・返される」ことがなければ、クライアントのことばは空しい独り言に終わるか、せいぜい実りのないこだまとしてはね返ってくるだけであるといっています。そのことは、仏道の指導の場にも当てはまると考えることができるのではないでしようか。

陀羅尼は力あるものであり、身体を変容させるといいます。私は、先に、『法華経』の焼身供養のイニシエーションの説明のところで、見逃したことがひとつあります。それは一切衆生喜見菩薩が焼身供養を終えて、再生して、王家に生まれ、父母に出家の許しを得るとき、その菩薩は、「この供養を終えて、すべての音声に精通する陀羅尼を得ることができた。無数の詩頌によって『法華経』を聞くことができた」ということです。

その意味とは何でしょうか。経文の詩頌は数が限られているのに対して、その数は無数であるといいます。それは仏道の実際が、無数であることを表しているのでしょう。無数の仏道の実際を聞いていくことで、すべての音声に精通する陀羅尼を獲得していくのでしょう。それは『十地経』の第九地が、世界、衆生、心を細かに観察して知っていこうとすることで、無数の陀羅尼の道を得ることに通じるでしょう。ただし、仏道のさまざまな実際を聞き、知ることができても、その知識は相手の身体の変容をもたらす陀羅尼となっていなければならないことになるでしょう。実地に仏道の実際に取り組み、その事実を観察し、探求し、学びに、実際に身体を変容させることができてこそ、陀羅尼が身につくということになるでしょう。陀羅尼とは体験知ということにもなるでしょう。心理療法家が体験知を必須のこととすることと同じと考えられるべきではないでしょうか。

『法華経』は先のように、焼身供養によって、陀羅尼が身につくといいますが、陀羅尼を身につけていく学びの出発点に立ったと解釈するのが適切であるでしょう。それまでは一人の身体による仏道の実践だけであり、いまだ、多数の身体による仏道は開始されていなく、これからダンマの相続者として任命されて、その学びを開始するからです。焼身供養はひとつの身体の仏道から多数の身体の仏道へと転換するためのイニシエーションであるため、そのように考えることが適切であるでしょう。『法華経』が説く正法の相続することは、法師としての必要な陀羅尼を身につけるための学びの開始を意味するでしょう。それまでの段階はその学びに必要な条件の実現までの過程を意味するでしょう。

 陀羅尼は無数にあるといいます。その無数のなかには、如来の陀羅尼のみならず、『法華経』でいえば、普賢菩薩の陀羅尼、毘沙門天、持国天の陀羅尼、羅刹女の陀羅尼があります。羅刹女は肯定的、否定的な面を持つ両義的なものとしてわざわざ登場しています。両義的な羅刹女の存在を知らず、それを否定する姿勢でいるならば、法師としての必要な数多くの陀羅尼を学ぶことはできないことになるでしょう。

舎利弗は、異人である竜女を否定していることは、ダンマの相続者ではないことを表しているのです。彼は、次のステップである焼身供養のイニシエーションを向かう準備として竜女が登場しているのです

舎利弗ははじめ竜女を否定したけれども、竜女の成仏の示現によって、自らの過ちを受け入れるのです。竜女は舎利弗に対して適切な対処を行えたといえるかもしれません。ただし、それは釈尊と多宝如来がいて、竜女の事実を証明しているからこそであるでしょう。竜女が釈尊に如意宝珠を差し上げ、それを釈尊が受け取られるのは、竜女の主張の正しさを証明しています。竜女は文殊菩薩の『法華経』の説法により、如意宝珠を得ることができた。つまり、如意宝珠とは最上の宝であり、それは『法華経』のことを表しています。竜女は『法華経』を持つものであり、『法華経』の相続者であることを如来は証明しているのです。『法華経』は、舎利弗がダンマの相続者になったと自ら主張していることを否定し、竜女こそ『法華経』の相続者であると説いているのです。ということは、竜女は焼身供養のイニシエーションを通過していることになります。竜女は現一切色身三昧によって、菩薩に姿を変えて、成仏を示現するのです。

ちなみに、最近知ったのですが、原始仏典の『ジャータカ』にも、竜女が登場します(高田修著『仏教の説話と美術』参照)。法師のイニシエーションが主題となっています。法師は夜叉にさらわれて、殺されそうになりますが、命乞いによって助かり、竜宮城へ連れ去られます。そこからまた本国に戻ってくるのです。その夜叉は竜女と結婚するために、竜女の父から、法師の心臓を持ってくるようにといわれるが、法師を殺さず、直接つれてくることで、結婚を許されるのです。

『法華経』では、竜女は舎利弗に対して次のイニシエーションへと先導する役割として登場しています。『法華経』の法師品では、菩薩でありながら、『法華経』を怖がるときは、自惚れた者と知るべきであるといいます。舎利弗は無生法忍を実現し、菩薩となっています。舎利弗は竜女の登場によって恐れを抱き、拒否するのです。自我肥大を起こし、影を否認するのです。影を前にして恐れるのです。

影はできるだけ分化させることが望ましいとユング心理学は言います。そのことから、舎利弗もそのようであるべきことになります。竜女、文殊、釈尊の助けによって、舎利弗は自らの過ちを悟るのです。その自覚は一切衆生喜見菩薩が現一切色身三昧の獲得では十分ではない焼身供養を受けることが必要であるという自覚につながっていくのです。ここで、一切衆生喜見菩薩が現一切色身三昧を獲得したと自認していますが、法師として必要な現一切色身三昧は獲得していないのが実際の事実であることを理解していません。それが身につくのは、金色の身体を獲得してこそ実現されます。その自認は否定されるべきものであるのです。意識の否定の作用は仏道の探求に不可欠であることがこのことからもいえます。否定する働きがあるからこそ、次へと進むことができるでしょう。

焼身供養を受ける前の現一切色身三昧はその三昧の入り口に立ったということでしかないことを意味します。舎利弗が竜女の変現の重要さを認識したことと同程度のものでしかありません。無生法忍を実現し、浄土に安住するあり方の危険を自覚し、現実と涅槃やさまざまな身体の区別できる自我の働きを具え、法師となるために学道しなければならないことを自覚し、それへと向かおうとしている段階を意味しています。

焼身供養のイニシエーションを終えた一切衆生喜見菩薩がすべての音声に精通する陀羅尼を得たと自認していることも、実際は、いまだそれを実現しているわけではありません。すべての音声に精通する陀羅尼を得るための学びの入り口に立ったことが実際の事実です。陀羅尼に精通するのは、法師となったときです。

『法華経』を相続することとは、白蓮のような汚れなき清浄な正法・ダンマを身に熟していくことを意味するだけではなく、汚れと見做される泥と適切な関係を持つようになることを意味するでしょう。

影は悪を含むが、必ずしも悪とは限らず、否定されたもの、原始的で劣等なものの意味を含むもので、人間らしくさせるための不可欠なものである(山中康裕著『臨床ユング心理学入門』参照)といいます。影を否認することはそれを肥大させるというのですから、白蓮のような清浄なダンマに舞い上がれば、影の肥大をもたらすことになるのでしょう。

(次へ続く)
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プロフィール

パン

Author:パン
玉城康四郎を尊敬する無宗派大乗仏教徒。一仏乗依拠。
終地の禅定を重視するが、多神教的であるアニマ・魂を尊重したい。また、自我の現実世界での役割も重視したい。
リベラル。無党派大衆運動を支持します。
会社員。

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