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ペルソナ

ペルソナ

 大場登著『ユングの「ペルソナ」再考』を読みはじめています。ペルソナには、肯定的な側面と否定的な側面が存在することを知りました。

ペルソナとは「個の要請と周囲・社会の要請との折り合い」といいます。
大場登氏の同著では「ペルソナとは、本来、時と場所、そして、状況により絶えず変化する」といっています。

ペルソナが適切に機能していることが重要になるようです。状況により絶えず変化する健全なペルソナは、外界との折り合いによってこそ、形成されるものなのでしょう。

「個性化の過程は、社会・外界との取り組みなしに、「静かな小部屋」のなかで、内界・無意識界と取り組むだけでは決して進展することはない。」

このことは、仏道にも当てはまるでしょう。大乗経典も本来はそのような意味で説いているはずです。
俗的な解釈でよく耳にすることは、大乗と小乗の教えの違いは、小乗はひとり悟りに安住して、利他の活動をしないあり方であり、大乗はそのあり方を否定し、自らの悟りは後回しにして、衆生をすべて救った上で、最後に悟りを得るあり方のことであると言われていることです。利他の精神を強調してそのような解釈をするのでしょう。俗的な解釈であるのでそれでもいいのでしょうが、経典の真意は全くそうではなく、往相のプロセスを経て、ついに、ダンマに徹底することができたら、今度は地上に戻るための試練を通過しなければならない。それに成功したならば、次に、法師となるために、多数の身体とかかわる仏道を探求しなければならないというのが本来の意味でしょう。

普賢行はここから開始されるのです。薬王菩薩が『法華経』の相続者となり、さらに求道して『法華経』の法師となって、はるか昔から、現在、そして未来へと法師としての活動を続けていく、それが普賢行であるのです。

普賢菩薩や文殊菩薩、薬王菩薩が見えない姿によって、『法華経』の受持者を守るといい、地涌の菩薩たちは見えない姿とは限定されていず、『法華経』を説くことを誓っています。それは何を意味するのかというと、地上に生きるわれわれが、金色の身体を持つ地涌の菩薩となる可能性を持つことを自覚し、積極的にその形成へと努めることをこの経典は地上に生きるわれわれに呼びかけているのです。文殊などの大菩薩がこの世に現れるのを期待する態度でいては、その形成は不可能であることを表しているのです。その身体の形成がこの世で可能となることは、久遠実成の釈尊によって、保証されているのです。その形成に本気で取り組まない限り、その可能性は花開くことはなくなってしまうでしょう。この探求へと道を無視したペルソナと同一化していれば、この道を歩んでいくことは不可能となるでしょう。

(5年まえに書いたもの)

「個の要請と周囲・社会の要請との折り合い」をつれること、それはとても難しいことのように私は感じますが、どうなのでしょうか。
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パン

Author:パン
玉城康四郎を尊敬する無宗派大乗仏教徒。一仏乗依拠。
終地の禅定を重視するが、多神教的であるアニマ・魂を尊重したい。また、自我の現実世界での役割も重視したい。
リベラル。無党派大衆運動を支持します。
会社員。

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