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いままで禅定を舐めていたのだと反省

禅定の達人とは実際、どういうものなのでしょうかね?
それに熟達した人の技は想像を絶するものなのかもしれないですね。

私など初心者で、その段階で躓いて、後退してしまっているわけですから、話になりません。
基本を身につけることからはじめなくてはなりません。

今頃になって、気づいたのですが、いままで禅定を舐めていたのだと思います。
恥かしいことです。

職人さんの匠のように、禅定も匠といえるところまでいきたいものですね。
それはどんなものなのかはわかりませんが。。。

眠気が続く合間に入定

ほぼ一日中、眠いのであるが、そのなかでも目の覚めている時間帯がある。その間に禅定に入る。
全盛期の頃のように、ダンマを凄絶に実感するまでにはいたらないが、ダンマの働き、貫き、開くは実現している。
このとき安楽である。
これを身体にしっかりと定着させたい。確かなものと実感されるまで。

禅定の達人を目指したい。磨けば磨くほど、その技も光り輝くものとなるだろう。きっと。

職人さんの技はすごい。それと同じく禅定もすごいものにしたい。日々修練。

如来を思い浮かべる

今日も眠かった。いどうの電車内ではずっと寝ていた。こんな状態で瞑想はできやしない。
如来を思い浮かべる。そのとき如来に関わっている。凄絶に実感できなくても、関わっている事実には違いはない。この如来の実感を繰り返し修習するしかない。それによっていづれ実感も強固になっていくだろう。

昔のように戻したい。自分で言うのは全く変だが達人の域に戻したい。時を忘れて没頭しているのが達人ではないのではないか。私のそれは如来の実感の凄絶さと独活、瞬時に如来の実感に占有されること、である。はやくもとのそれを取り戻したいのだ。

終地は誰でも実現できるのだから、もはやそれは達人のそれとは呼べないだろうな。
さらに習熟するとどのようになるのだろうか。興味津々だ。できれば、我が身で実現したいものだ。

人は私自身がどうであるかどうかばかり見て、ダンマを実現しているかどうかを見ないのはなぜ?

人は私がどういう人間であるかどうかばかり見ようとし、ダンマを実現しているかどうかを見ようとしない。
そのような人に対して、大事なのはいったい何だろうか?と私は問いたい。

誰でも実現できる終地の禅定に入定し、如来と二人連れで道を歩むこと、それが仏道ではないのか?
人格がどうであるかは大切なことには違いない。常識に照らして言えばそうだ。いうまでもなく。

終地とは一体何であるのか、身をもって、探究するのがいちばん大切だと私は思う。それをせず、それを知らず、そのままにあれこれ考えて、それは意味があるのだろうか?大事なのは自身で探究することだろう。それしかないだろう。

眠気との闘い

医師から処方されて飲んでいる薬の副作用のためか、四六時中眠くて仕方がない。
であるので、瞑想を行おうとしても、眠気との闘いになってしまっている。
ダンマが貫き、ダンマの激流や放散していた頃の状態とと同じようにしていきたいのだが、まったくできずいる。

私生活では困った状況で、神仏の加護に頼りたい気持ちを抱き、それよりほかに道がないのではないかと思うほど、自力の越えた難問に直面している。

プロフィール

パン

Author:パン
玉城康四郎を尊敬する無宗派大乗仏教徒。一仏乗依拠。
終地の禅定を重視するが、多神教的であるアニマ・魂を尊重したい。また、自我の現実世界での役割も重視したい。
リベラル。無党派大衆運動を支持します。
会社員。

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