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鎌田東二「トランスと異次元と進化」

京都大学公開講座「進化とは何か?」2009/10/18 (Sunday) 鎌田東二(京都大学こころの未来研究センター 教授)「トランスと異次元と進化」


つい最近、鎌田東二さんの動画を見つけた。京大の公開講座のようです。
今日、時間をつくり、見ることにした。
大変面白い講義であったので、ご紹介します。

トランス状態、ヌミノース体験、アマテラスの天の岩戸、トランス技術としての音楽、空海の求聞持法による明星来影体験など、が語られる。

以下、鎌田さんの言っていることとは別の面から、玉城康四郎のいうダンマの顕現の視点から少し述べてみよう。

ご存知の通り、玉城康四郎は空海の先の体験をダンマの顕現の体験であろうと見ている。

ざっくりとした理解で言えば、トランス状態は、仏教でいえば、第三禅の楽の状態と見てもよいだろう。
玉城はこれを【ひとかたまり】の状態、【カララ】、【心(しん)】であると説明した。四念処の心念処に相当する。
仏教では、楽の状態から進んで、解脱の状態の実現を目指す。
仏教は、純粋生命・形なきいのちそのもの体験を実現することを何よりも重視している。ダンマを尊重することが仏道の根本である。

このダンマの尊重する仏道者の姿勢は、そればかりに目が向いてしまうために、魂・心の持つ多神教的な面を無視してしまうことになりやすい。これを無明や魔、煩悩の領域として退けてしまう。

心・魂の持つ自然の豊かさを切り捨ててしまう。人間性、動物性を無視してしまう。これは大変よくないことである。このことは以前のエントリーで述べた。

いまの日本社会は、アニマ・魂を無視してしまっているように私には見える。

さて、今年、日本社会は明治維新以来の歴史的転換と評される政権交代が実現した。その政権は行き過ぎた市場原理主義を改め、国民生活第一の政治を行うと詠っている。去年は、心ある市民によって行われた年越し派遣村は、政府や自治体によって担われる公設派遣村が実施されている。このことは、それまでの政治と比較して、国民の生活第一とする政治のささやかな一歩となったといえそうである。

あと何時間かで、次の年が始まる。
私は、この現代社会が喪失してしまったかのように見える「魂の持つ豊かさ」について、どのように回復していったらよいのか、一市民として考え、一市民として、その回復に取り組んでいきたいと思っている。

来年は寅年。『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、【「寅」は「螾」(いん:「動く」の意味)で、春が来て草木が生ずる状態を表しているとされる。】と。
日本社会が真冬を越えて、春を迎え、新生した社会が草木のように育っていくような年となることを願って止まない。
われわれ市民がそのようにしていくためにも、一人一人の自覚とその行動にかかっていることはいうまでもない。その一人として、努力していきたい。

アスタロト、イシュタル、アプロディーテー、クリスマス、弥勒、終い天神

ウヒヒヒヒ。私はアスタロトだ!

『ウィキペディア(Wikipedia)』から以下、引用しよう。

[アスタロト]


コラン・ド・プランシー著『地獄の辞典』の挿絵におけるアスタロトの姿

アスタロト(Astaroth)は、数々のグリモワールに登場する高位の悪魔。ソロモン72柱の魔神の1柱で、40の悪霊の軍団を率い、序列29番に位置する大公爵とされる。

悪魔の位階において告発者(中傷者)と呼ばれる第8位階の君主である。

第一階級の悪魔の一人として怠惰を司り、聖バルトロマイの敵対者である。堕とされる以前は座天使の君主であったという。

皇帝ルシファー・君主ベルゼビュートと並んで地獄を支配する三柱の霊として名を上げられており、大公爵の地位にあるという。

召喚されると、巨大な蛇またはドラゴン(あるいはドラゴンに似た獣)にまたがった天使の姿を取り、右手には毒蛇を持ち、口からは毒ガスを吐き出すため、間近に寄らせるのは危険とされる。蝿の王ベルゼブブのそばに、ロバの姿で現れることもあるという。黒白の色をした人間の姿で現れることもある。
 過去と未来を見通す能力を持つ。質問者に学術を教授することもある。天地創造から天使がいかにして堕天したかということも語るが、天使として自分が受けた罰が不当であるとも主張する。
 数々のグリモワールや悪魔学者によって高位の悪魔として言及される背景としては、旧約聖書にも異教の神としてしばしば登場するアシュトレトを起源に持つことが挙げられる。(アスタルテ#カナン地域におけるアシュトレトも参照のこと)

一方、初期のアスタロトは後代のそれと全く異なっており、黒い服を着た美しい姿だが非常に残忍な性格で、唇からは一筋の血を流し続け、他人の苦痛に微笑むという[要出典]。元になった女神アシュタロトはカナン神話のアナトなどでは美しくも勇猛、残忍な争いの女神としての側面を持っているため、初期のアスタロトもこうした神格を反映した悪魔だったのだろうと思われる。なお、女神としてのアシュタロトはイシュタルからアフロディテへとその性格を伝播している。


上記に「アスタルト#カナン地域におけるアシュトレトも参照のこと」とあるので、以下、『ウィキペディア(Wikipedia)』 を見てみよう。

[アスタルト]

アスタルト (‘ṯtrt [‘aṯtart])は、地中海世界各地で広く崇められたセム系の豊穣多産の女神。崇拝地はビュブロス(Byblos、現在のレバノン)などが知られる。 メソポタミア神話のイナンナ、イシュタル、ギリシア神話のアプロディテなどと起源を同じくする女神と考えられ、また周辺地域のさまざまな女神と習合している。

<カナン地域におけるアシュトレト>
この女神はカナンなどでも崇められており、旧約聖書にも、主要な異教の神としてヘブライ語形 アシュトレト (עַשְׁתֹּרֶת)の名でしばしば登場する。 ちなみにこの女神の本来のヘブライ語名はアシュテレト (עַשְׁתֶּרֶת)である。アシュトレトとはこれに「恥」を意味するヘブライ語ボシェトの母音を読み込んだ蔑称である。宗教的に中立とは言い難い呼称だが、以下本節では聖書の記述に従い こう表記する。
 アシュトレトの複数形アシュタロト (עַשְׁתָּרוֹת)はまた、異教の女神を指す普通名詞として用いられた。また旧約聖書には地名としても出てくる(『申命記』 第1章第4節他)。
 この地域においてもウガリットと同様に軍神的性格は後退し、もっぱら豊穣・繁殖の神として崇められた。この地域で出土するふくよかな体型の女神像の少なくとも一部はアシュトレトであると考えられる。

豊穣神としてのアシュトレトは特にこの地域の農民にとって極めて魅力的であり、同じく豊穣神であるバアルと共に極めて熱心に崇拝された。この地域に入植したヘブライ人たちにとってもバアルやアシュトレトは魅力的であり、ヤハウェ信仰の脅威となるほどの崇拝を受けた(『士師記』第2章第13節)。また、旧約聖書『列王記』上第11章第5節には、晩年のソロモン王が妻達の勧めにより、アシュトレトをはじめとする異教の神々を崇めた事が記され、この頃には為政者側にまで異教の神々への信仰が浸透していた事がわかる。それ以後もイスラエル王国の多くの王たちはその信仰を容認したため、ユダヤ教聖職者から激しく攻撃された。
 また、『エレミヤ書』に登場する女神天の女王も、彼女の呼称の一つと考えられている。

この旧約聖書におけるアシュトレトが、後にヨーロッパのグリモワールにおいて悪魔・アスタロトとされた。


では、イシュタルについては、以下、『ウィキペディア(Wikipedia)』より。

[イシュタル]

イシュタル(Ishtar)とは、古代メソポタミアにおいて広く尊崇された性愛、戦、金星の女神。
イシュタルはアッカド語名であり、シュメール語におけるイナンナに相当。
その親族関係に関しては、異なる伝統が並存する。主なものには、月神ナンナ/シンの娘、太陽神ウトゥ/シャマシュの妹という位置づけがある。他、例えばウルクにおいては天神アヌの娘とされる。
様々な女神と神学的に同定された。主なものはアッカド市の女神アヌニートゥ、バビロン市の女神ベーレト・バビリ(「バビロンの女主」の意)など。ただし、いわゆる母神と同定される事はなかった(よってイシュタルは創造者としての地母神的性格は弱い)。
主な崇拝地はウルク、キシュ、アッカド、バビロン、ニネヴェ、アルベラ。

イシュタルは出産・豊穣に繋がる性愛の女神。性愛の根源として崇拝されていた一方で、インポテンツ(ED)など性愛に不具合をもたらす女神としても恐れられていた。また性同一性障害とも関係づけられ、その祭司には実際に性同一性障害者が連なっていた可能性も指摘されている。他、娼婦の守護者であり、その神殿では神聖娼婦が勤めを果たしていた[1]。イシュタルの正式な配偶神は存在しないが、多くの愛人(神)が知られている。これは王者たる男性が恋人としての女神から大いなる神の力を分け与えてもらうという当時の思想に縁っている。最も著名な愛人は男神ドゥムジ(タンムズ)。イシュタルとドゥムジにまつわる数多くの神話が知られている。『イナンナの冥界下り』(シュメール語)/『イシュタルの冥界下り』(アッカド語)をはじめとするそれらの神話において、ドゥムジはイシュタル(イナンナ)の身代わりとして殺され、冥界に送られる。(以下、省略)


『イシュタルの冥界下り』
ハンドドラム研究/イシュタルの冥界下りでわかりやすく説明されている。
神話でよくみられる「死と再生」巡る物語である。

次に、アフロディテについて。『ウィキペディア(Wikipedia)』より。

[アプロディーテー]

アプロディーテーは、愛と美と性を司るギリシア神話の女神で、オリュンポス十二神の一柱である。美において誇り高く、パリスによる三美神の審判で、最高の美神として選ばれている。また、戦の女神としての側面も持つ。日本語では、アプロディテ、アフロディテ、アフロディーテーなどとも表記される。
元来は、オリエントや小アジアの豊穣の植物神・植物を司る精霊・地母神であったと考えられる。アプロディーテーは、生殖と豊穣、すなわち春の女神でもあった。

<東方起源の性格>
古くは東方の豊穣・多産の女神アスタルテー、イシュタルなどと起源を同じくする外来の女神で、『神統記』に記されているとおり、キュプロスを聖地とし、「キュプリス」という別名を持つ。オリエント的な地母神としての性格は、繁殖と豊穣を司る神として、庭園や公園に祀られる点にその名残を留めている。そして愛の女神としての性格を強め、自ら恋愛をする傍ら人々の情欲を掻き立てて、恋愛をさせることに精を出している。同じく愛の神エロースと共にいる事もしばしばである。また、これとは別に航海の安全を司る神として崇拝されたが、これはフェニキアとの関連を示唆すものと考えられる。
 スパルタやコリントスでは、アテナのように、甲冑を着けた軍神として祀られていた。特にコリントスはギリシア本土の信仰中心地とされ、アプロディーテー神殿[1]には、女神の庇護下の神殿娼婦[2]が存在した。この所作もまた東洋起原のものとされる。
 古くから崇拝されていた神ではないために伝えられる説話は様々である。ヘパイストスの妻とされるが、アレースと情を交わしてエロスなどを生んだという伝承もある。アプロディーテとエロスを結び付ける試みは、紀元前5世紀の古典期以降に盛んとなった。

<金星の女神>
本来、豊穣多産の植物神としてイシュタルやアスタルテー同様に金星の女神であったが、このことはホメロスやヘーシオドスでは明言されていない。しかし古典期以降、再び金星と結び付けられ、ギリシアでは金星を「アプロディーテの星」と呼ぶようになった。現代のヨーロッパ諸言語で、ラテン語の「ウェヌス」に相当する語で金星を呼ぶのはこれに由来する。
 グレゴリオ聖歌でも歌われる中世の聖歌『アヴェ・マリス・ステラ』の「マリス・ステラ(Maris stella)」は、「海の星」の意味であるが、この星は金星であるとする説がある。聖母マリアがオリエントの豊穣の女神、すなわちイシュタルやアスタルテーの系譜にあり、ギリシアのアプロディーテや、ローマ神話のウェヌスの後継であることを示しているとされる。


『イシュタルの冥界下り』に類似の話しがアプロディーテーにもある。プシューケーに与えたアプロディーテーによる試練。
プシューケー - Wikipediaにある。
また、愛の神 エロスは、この物語を大変わかりやすく書かれているので、おすすめする。パンの神も慰め役として登場する。

ところで、今日はクリスマス。12月25日 - Wikipediaを見てみた。以下。

<クリスマス>
イエス・キリストの降誕を記念する日。聖書等にはキリストの誕生日についての記述はなく(4月~9月の間とされ、確定できているのは12月の寒い時期ではないという事である)、各宗派がそれぞれに日付を定めてキリストの生誕を祝っていたが、元々太陽信仰のミトラ教の信者でキリスト教に改宗したローマ皇帝コンスタンティヌス1世が、336年にミトラ教の祭である冬至祭の日であったこの日をイエス・キリストの降誕の日と定めた。


ミトラ教の祭である冬至祭の日、何でしょう?
ミトラ教 - Wikipediaによると、
<クリスマスとミトラ教>
12月25日はイエス・キリストの誕生日としてキリスト教の祭日となっている。しかし実際にはイエス・キリストがいつ生まれたかは定かではなく、12月25日をクリスマスとして祝うのは後世に後付けされた習慣である。聖書にもイエス・キリストが生まれた日付は記述されていない。
 前述のローマ帝国時代において、ミトラ教では冬至を大々的に祝う習慣があった。これは、太陽神ミトラが冬至に「生まれ変わる」という信仰による(短くなり続けていた昼の時間が冬至を境に長くなっていくことから)。
 この習慣をキリスト教が吸収し、イエス・キリストの誕生祭を冬至に祝うようになったとされる。


なるほど、太陽神ミトラが冬至に「生まれ変わる」という信仰によるのか。
太陽神ミトラは、仏教の弥勒菩薩と関係があるとは知らなかった。

<アーリア人の神ミスラ>
元々、ミトラス神は、アーリア人の古い神話に登場する光明の神であり、イランの『アヴェスター』においても、インドの『リグ・ヴェーダ』においても登場する有力な神であった。ゾロアスター教でも、ミトラは中世ペルシア語でミフルヤズドと呼ばれ、重要な役割を持ち、多数の神々のなかでも特殊な位置付けであった。
<仏教の弥勒信仰>
仏教には、弥勒菩薩が存在し、「弥勒信仰」がある。この弥勒は、サンスクリット語ではマイトレーヤというが、マイトレーヤとは、ミスラの別名である。またはミスラから転用された神名であり、仏教では菩薩として受け入れられ、マイトレーヤを軸とした独特の終末論的な「弥勒信仰」というものがある。
<マイトレーヤ信仰とミトラ教>
仏教の弥勒信仰以外にも、イランやインドではミトラ信仰があり、マイトレーヤ信仰があったことは分かっている。マイトレーヤ信仰または弥勒信仰が中国に伝わり、独特な宗教を構成したとする考えも、かなりの歴史的妥当性を持って確認できる。


さて、今日クリスマスは終い天神の日でもあるようだ。ちょっとびっくり。
12月25日 - Wikipediaより。
<終天神(しまいてんじん)・ 納天神(おさめてんじん) >
天満宮で毎月25日に祀られ行われる縁日の一年最後の祭典。


終い天神とは何だろう。
御祭神菅原道真公の誕生日6月25日、薨去の2月25日に因み毎月25日は、天神さまの御縁日として、終日境内周辺に露店が所狭しと立ち並び、参拝者の人波が絶えない。
特に12月25日は、終い天神(1月25日は初天神)と呼ばれ、京都の一年の行事を締めくくる恒例神事として毎年京阪神はもとより全国からの多数の参拝者で賑わう。(例年約15万人の参拝者)

北野天満宮ニュース 終い天神より。

ちなみに、今日のニュース。
行く年に感謝「終い天神」 京都・北野天満宮に15万人 - MSN産経ニュース

以上。おもしろいつながりがあった。
【死と再生】が主題となっている。宗教だから、当然か。また、【否定的側面と肯定的側面】にも注意したい。

スーフィの【神的われ】と玉城康四郎のダンマ

玉城康四郎ファンの人になかに、イスラム思想の権威である井筒俊彦さんの本を読んでいる人が結構、多いようだ。

私も、だいぶ前になるが、井筒さんの本は何冊か読んだ。熟読ではなく、斜め読みに近い形でしか読んでいない。あまり関心を持っていない。

ふと、いま思い出して、井筒さんの本をちょっと見てみた。井筒俊彦著『イスラーム哲学の原像』である。
スーフィズム(イスラムの神秘主義)についての解説である。

いま、再び通読する時間はないので、最も大事と思われる、意識の最も深いところの【シッル】についてのみ、見てみることにする。

スーフィは意識構造を五層とし、その最下層を「シッル」と呼ぶとある。
修行者がこの意識に達すると、【自我意識は完全に払拭される】とあり、この体験のことを【ファナー】と呼ぶ。
これは【絶対無】であり、【無我】である。
この【絶対無の自覚】が【「神的われ」、「神のわれ」の自覚】である。これを【バカー】と呼ぶ。
この実現により、【神的われ】は修行者の口を通じて、【われこそは神】と宣言するという。

井筒はこれをインドのヴェーダーンダの【われこそはブラフマン】の表現と同じであるといっている。
【われこそは神】を実現した修行者・八ッラージは、その宣言によって、神を冒涜するものであるとの俗人の無理解により、刑場に引き出され無残な死を遂げたという。

以上が、その概要である。

このことは、なるほど、と思う。
スーフィの【神的われ】の実現も、インドのブラフマン・アートマンの実現も同じであるだろう。そして、玉城康四郎のいう、ダンマの顕現の体験ももちろん、同じであるだろう。

アートマンの実現が、【無我】の実現である。このことは、ラマナ・マハルシも言っている。玉城康四郎も同じだ。ダンマが通徹し、自我が消滅している、と。

自我消滅とダンマの顕現はまさしく、同じである。だから、玉城は、木っ端微塵の大爆発の体験として表現するし、自我が絶滅しているとか、ダンマが通徹しているかと表現するのである。

このような【無我】の実現が【涅槃】の実現であるわけで、ことばは違っても同じである。

よって、この体験の自覚によって、【われは如来なり】というような宣言がありうるのではないかといえそうである。

しかし、私はそのような自覚の上で、その宣言は、【自我肥大】であると見なす。
なぜなら、この体験は、真実にそのとおりに体験されるとして、その圧倒的な体験、または力によって、自身を見失ってしまうからである。自身を如来となってしまったかのように見なしてしまう。ここに大きな陥穽がある。

ただ、このようにいうと、誤解が生じるかもしれない。
この体験を得るのに、自我を残しておく必要がある、と私は決して言っているのではないことを強く強調しておきたい。自我が絶滅してしまうようでなければ、その体験は本物ではないからである。そのことは、改めて言うまでも無く、玉城康四郎が著書で述べているとおりである。

この自我消滅の体験は、そのまま自我が働かなくなったことを意味しない。このことはきわめて大事である。そのことを以前のエントリーで何度も説明した。

私のこの主張は、一見、矛盾しているかのように見られていしまうかもしれないが、よくよく読んでみれば、ある程度はわかるのではないかと思っている。

ともかく、実践の上では、シンプルに、自我消滅の、ダンマの顕現を得ることに専念すればいいだけのことであって、これにわざわざ説明する必要性はほとんどないだろう。ましてや、玉城康四郎は詳しく説明している。

自我消滅しているはずの人が、なぜ、確信という自我の働きをするのか、自らダンマになるというのか、きわめておかしなことである。

ダンマ・如来が中心になって働く状態の実現が大事である。これがしっかりと定まれば、その実現を【終地】といってよい。
このとき、自我は中心的役割を積極的に果たしているわけではなく、如来が中心となっているわけであるが、それでも、自我は働いているのであって、【如来の働きの状態にある自我が働いている】ということなのである。
これを文章で説明しても、この体験のない人は、勝手に解釈して、理解してしまうので、あまりよいことではない。
そうであるから、何より、大事なのは、自我消滅するダンマの通徹こそ、必死になって取り組むことが大事なのである。実践の上では。

終地の実現しても、それは仏道の基本にすぎないという。
『法華経』の説いているように、本当の到達先は、はるかに先にあるのである。
それを受け入れることができないのであれば、終地を目指して努力すればいいだけのことである。

私は仏乗に基づくので、今後のこの道を歩もうとする初心の人に対し、仏乗に基づくべきであると勧める。
だから、適切に、発心すべきであり、終地を最上としてはならないという。

ただ、誤解してはならないのは、玉城康四郎も言っているように、終地の禅定は、これ以上のないほどの徹底したものでなければならないことを十分に理解しておかなければならない。ほんのちょっと何か、ダンマのようなものを体験したことを過剰に重大視して、悟りを得たと喜んでいてはまったく意味のないことである。
終地を実現しても、まったく大したことではないのである。過大に評価してはならないのである。

繰り返すが、終地の禅定は、自我が消滅したダンマの通徹でなければならい。これ以上のないほどの徹底したものでなければならない。
その上で、私が【その実現しても、自我の働きがある】という本当の意味が、その体験の上で、学ぶ必要がある。結局、本当の意味の理解は、終地の実現なしには得られない。

あれこれ頭で考えても、勝手な解釈するより、仏乗に基づこうとし、適切に発心することをまずはお薦めする。これがきわめて大事であると思う。
そこから、実際の実践を開始していくのがよいはずである。大乗経典はそう説いているはずである。

終地の禅定は、玉城康四郎のいうように、これ以上のないほどの徹底したものである。仏乗に基づいて発心し、最上である終地の禅定を実現し、それは仏道の基本の実現に過ぎないと思い、そこから、ごく普通の人がごく普通の人のままに、如来とともに歩むという、仏道の歩みがはじまる。その目指す先は、はるかなる究極の到達へ(大乗の仏と成ること)と向かって、無限の時間をかけて歩んでいくことである。それが仏乗なのであって、仏道はそれしかないのである。

女神チャームンダー


インド人の苦しみを全て表すヒンドゥー教の女神チャームンダー (2005/01/22 National Museum, Delhi, INDIA)
http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Chamunda.jpgより。

チャームンダー Camunda インド
 七母神の一。ヤマの妃とされる。痩せて骨ばかりの体で歯を剥き出し、舌を長く伸ばし、髪を逆立てている。墓場などの不浄な場所に住み、梟に乗る。不気味な笑い声を立てて魔神たちの闘争心を恐怖に変えてしまう。
 又、人々の苦痛を引き受けるとされる。
http://i-otter.hp.infoseek.co.jp/kami/k_bti.html

今日、仏教学者・森雅秀さんのHPを見つけた。チャームンダーについて説明されている。以下に引用する。
 カーリーとよく似た神にチャームンダーという女神もいます(図18)。ふたりの神は同一であると考える人々もいます。チャームンダーも恐ろしい神で、天然痘の神であるとも言われています。その姿はやはり痩せこけた骨と皮だけで、顔は骸骨のようで、乳房もひからびています。蠍とともに描かれることもありますが、蠍も天然痘と関係のある動物で、死と結びついています。
 カーリーもチャームンダーもどちらも女神です。しかも母神、母なる神と呼ばれています。これはわれわれが持っている女神とか母なる神というものとはかけ離れた存在です。われわれが女神や母に求めるイメージは、美や豊穣、包容力、生命力などです。しかし、ここに描かれた女神の姿はその正反対です。死をもたらすものであり、その姿は血や髑髏、死体などで飾られたいわば死のイメージのオンパレードなのですが、このような神がインドにおいては中世以降、絶大の信仰を集めました。
森雅秀のHP「インドの宗教にみられる生死観(2)インドの宗教にみる死のイメージ」 http://web.kanazawa-u.ac.jp/~hikaku/mori/misc/lectures/%90%B6%96%BD%97ϗ%9D2.htmlより。

遠藤周作著『深い河』には、チャームンダーが登場しているようだ。それは遠藤文学の到達した〈救いの世界〉を描いているようだ。
以下、引用する。
最後の純文学書下ろし作品『深い河』は、インドへの数回の取材旅行の後に完成した。
 小説中にはヒンズー教の女神・チャームンダーの像が出てくるが、これは「印度人の苦しみのすべて」を表す像である。
 長いあいだ人々が苦しんできた病気のすべてにチャームンダーはかかり、さらにコブラやサソリの毒にも耐えている。それなのにこの女神は、「喘ぎながら、萎びた乳房で乳を人間に与えている」のである。
 清純でも優雅でもなく、美しい衣装もまとってはいない女神。むしろ、醜く、老いて、苦しみに喘ぐ女神像・・・この姿のなかに読者は、ヨーロッパの聖母マリアとは違った、〈苦しみの母なる女神〉を見る。遠藤文学の到達した〈救いの世界〉を知る。
 『深い河』は、作者が最後の闘病生活に入る直前に脱稿した。そこには、人間の生と死を包みこむ〈大いなる命としての母〉が描かれた。
「母なる神を求めて 遠藤周作の世界展」展覧会構成 5.到達の地~救いの世界~ http://www.shibunkaku.co.jp/artm/shusaku/kousei.html より。

「・・・・チャームンダーは墓場に住んでいます。 だから彼女の足もとには鳥についば啄まれたり、ジャッカルに食べられている人間の死体があるでしょ。・・・彼女の乳房はもう老婆のようにしな萎びています。 でもその萎びた乳房から乳を出して、並んでいる子供たちに与えています。 彼女の右足はハンセン氏病のため、ただれているのがわかりますか。 腹部も飢えでへこみにへこみ、しかもそこにはさそり蠍が噛みついているでしょう。 彼女はそんな病苦や痛みに耐えながらも、萎びた乳房から人間に乳を与えているんです。」遠藤周作著『深い河』
http://www.geocities.jp/princegifu/indotetu8.htmより。

チャームンダーは、墓場に住む、死の神であるヤマの妃。恐ろしい神で、天然痘の神。カーリーのように、骸骨を身にまとい、手には剣を持ち、襲い掛からん勢い。また、その姿は痩せこけた骨と皮だけで、顔は骸骨のようで、乳房もひからびている。右足は伝染病のため、ただれていて、 腹部も飢えでへこみにへこみ、しかもそこにはさそり蠍が噛みついている。
さまざまな病苦や飢え、蠍などの毒の痛みの姿。それはまた、それに苦しむ人々の苦痛をともに苦しみ、あるいは、それを代わって引き受けているかのようである。

大乗に、代受苦ということばがある。
『ウィキペディア(Wikipedia)』 には、代受苦(獄苦代受)について、以下のようにある。
「獄苦代受(ごっくだいじゅ、Skt:Duhkhaudvahana)とは、仏や菩薩が衆生の地獄(のような)苦しみを代わりに受けることをいう。代受苦、大悲代受苦ともいう。
特に、地蔵菩薩はその徳相を表すとされる。他人の代わりに苦しみを受けることで、菩薩の大慈悲心についていう。」

チャームンダーも、代受苦しているのかもしれない。

このチャームンダー姿を見ていると、インドのハンセン病と貧困の救済に取り組まれたマザーテレサを私は想起する。
マザーテレサのとても疲れきった姿が、私には印象深く記憶に残っている。
と同時に、その疲れきった姿にも関わらず、神がその内から光り輝き、神とともに暮らし、「貧しい人・イエスに仕える幸福」に満たされている、何ともいえない笑顔も、また印象深く記憶に残っている。

玉城康四郎は、最晩年、遠藤周作のキリスト教観に共感していたようで、遠藤亡き後で、生きているときに、ゆっくりと語り合いたかった、と述べている。

玉城がチャームンダーについてどう考えていたかは、私は知らない。
玉城康四郎が遠藤周作に共感したことの意味についても、私はまったく知らない。今後、縁があれば、調べてみたいと思う。

チャームンダーについて、このごろ、気になっていたので、ちょっと、調べてみた。稚拙なものになってしまって、恥ずかしいが、これで勘弁を。

アスモデウス

悪魔をもうひとつ紹介。
グリモワールのアスモデウス
提供: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



悪魔学によると、彼は元が激怒と情欲の魔神のためか、キリスト教の七つの大罪では色欲を司る。悪魔になる前は智天使だったとされる。

グリモワールのひとつ『ゴエティア』ではいわゆるソロモン72柱の魔神の1柱とされる。アマイモン配下の東方の悪魔の首座で、72の軍団を率いる序列32番の大いなる王とされる。

姿かたちは牛・人・羊の頭とガチョウの足、毒蛇の尻尾を持ち、手には軍旗と槍を持って地獄の竜に跨り、口から火を噴くという。 姿を見ても恐れずに敬意を払って丁寧に応対すれば非常に喜び、指輪やガチョウの肉をくれたり、幾何学や天文学などの秘術を教えてくれるという。
プロフィール

パン

Author:パン
玉城康四郎を尊敬する無宗派大乗仏教徒。一仏乗依拠。
終地の禅定を重視するが、多神教的であるアニマ・魂を尊重したい。また、自我の現実世界での役割も重視したい。
リベラル。無党派大衆運動を支持します。
会社員。

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